(47) Saxophone Colossus (1956)/ Sonny Rollins

初期のソニー・ロリンズは、バド・パウエルやファッツ・ナヴァロと競演したセッション(1949:『The Amazing Bud Powell, Vol. 1』と『The Fabulous Fats Navarro, Vol. 2』に収録)あたりでデクスター・ゴードンばりの豪放なバップ・テナーを披露しているが、その後まもなく麻薬所持で逮捕・入獄があり、1952年も麻薬による入所または入院でまるまる潰している。早くからロリンズの(作曲能力を含めた)才能に惚れこんでいたマイルス・デイヴィスは、この合間に『Dig』(1951)等でロリンズを起用しているし、1954年6月には例の『Bag's Groove』の片面のセッションでロリンズを前面に押し立てているが、必ずしもマイルスの期待に答えるプレイは残せなかった。1954年の秋には、ロリンズはシカゴに雲隠れし(これがロリンズの第1回目の雲隠れとされる)、麻薬厚生施設に入院したり、肉体労働で糊口を凌いだりしていたようだ。
結局のところ、50年代前半のロリンズは、誰もが認める傑出した才能にもかかわらず、麻薬のために精神的な安定が得られず、これといった決定的な演奏を残せないでいた感じがする(この時期の唯一の快演は『ソニー・ロリンズ・ウィズ・ザ・モダン・ジャズ・クァルテット』でのミルト・ジャクソンとの競演だろうか)。


1955年にマイルスが自己のオリジナル・クインテットの結成に取り掛かった時、ロリンズにラブコールを送ったが断られた(結果的にコルトレーンが雇われる)、という話は有名だが、この年の10月、クリフォード・ブラウンマックス・ローチ楽団のシカゴ公演の際、家庭の事情で実家に帰ってしまったハロルド・ランドの代役としてこのバンドに参加したのが、ロリンズのジャズシーン復帰とその後の快進撃のきっかけになった。
再三の引退劇からも想像されるように、ロリンズは結構神経質な男だったようで、まずもって精神的な安定というか、自分のやっている事に対する確信がないとまともに音楽をできないといった様子が時折伺える。その意味では、この時期佳境に入っていたブラウン=ローチ・コンボとの出会いと競演が、自分の目指すジャズへの希望と自己のプレイに対する確信を(そして麻薬との決別の意志を)生んだことは間違いないだろうと思う。


もう一つロリンズの神経質さを感じるのは、楽器の調整に関することだ。51年頃からのロリンズを幾つか聴いてみると、フレージングの優劣以前に、その時々でかなり楽器の鳴り自体の出来不出来を感じざるを得ない。ロリンズはパーカーと同様楽器やマウスピースには無頓着であったように言われるが、どうも50年代前半は、リードやマウスピースやアンブシュアについてかなり悩んでいたんではなかろうか。豪放な音を出すために相当硬いリードを選んでいたことは想像できるが、音の出具合と表現力との限界のところで随分と吹奏法の試行錯誤を重ねていたのではないか、と勝手に思っている。
比較的に、50年代前半のロリンズの音は、特に高音がキンキンとかなり硬質で、時折リードミスもあり、心地よい音とは言いがたい。同じ56年の『At Basin Street』や『Tenor Madness』でも高音が聴きづらいと感じる部分があって、そういった緊張感を孕んだロリンズの音を好む人もいるだろうが、僕はやはり、低音から高音まで豪放かつふくよかでスムーズな音色を確立したこの「サキコロ」が、音色の面でも初期のロリンズの一つのピークをなしていると思う。


麻薬禍の克服と精神的な安定と高揚があり、自分自身の音楽的スタンスへの確信が生まれ、奏法も安定してきたことで、名演の生まれる基本的な条件は満ちていたわけである。アイデアでアドリブを演る男だったロリンズにとって、あとはインスピレーションが天から舞い降りてくるのを待つばかりだった。それが起きたのが1956年の6月22日だった、ということである。関係ないが、それは僕がこの世に生を受けて3日後のことだった・・・(^o^;


50年代の100枚リスト