(53) This is How I Feel about Jazz (1956) / Quincy Jones

私の考えるジャズ

私の考えるジャズ

50年代ジャズの100枚レビューも、半分ほどで頓挫したまま諦めかけていたが、まあ暇があればちょっとづつでも書いてみようと思い直して、再開なのだ!


今年はクインシー・ジョーンズのデビュー50周年ということで、記念アルバムなども出されているようだが、その50年前の初リーダー作がこの『私の考えるジャズ』だった。それ以前にも、ライオネル・ハンプトン楽団の伝説的なヨーロッパ楽旅や、ガレスピーのビッグバンド、『ヘレン・メリル・ウィズ・クリフォード・ブラウン』、ソニー・スティットの『ペン・オブ・クインシー』等で見事なアレンジを披露していたクインシーだが、この初リーダー・アルバムの時点でまだ若干23歳、この時集められた豪華なメンバーを見れば、すでに周囲からかなり高い評価を受けていたと想像できる。


『私の考えるジャズ』というちょっと大仰なタイトルに身構えて、なにか奇抜で実験的な音楽を期待して聴いたならば、その呆気ないほどオーソドックスな中身に肩透かしを食らうかもしれない。いや、よく聴けばこの時代としてはかなり斬新なアレンジ手法が点在しているはずだが、そうは聴こえない、それと気づかない。その辺にこのアルバムの秘密があるような気がする。


まず気がつくのは、メンバー連中の秀逸なアドリブソロに十分なスペースが与えられていることだが、譜面割りされた大編成のアンサンブルでさえも、まるでコンボ演奏の延長のようなレイジーでリラックスした響きに満ちている。おそらく、彼が「考える」ところのジャズは、決して外側からの枠組みで律されるようなスクエアなものであってはならず、あくまでスポンティニアス(自発的)でナチュラル(自然)な表現でなければならない、ということだろう。その辺は、ペンでのアレンジを超えた部分での、並みのアレンジャーとは一線を画すリーダーとしての稀有な資質がすでに出ている、といっていい。あるいは、クインシーのそのようなスタンスがソリストたちの名人芸を十二分に引き出したといって間違いない。


もうひとつは、少年時代にレイ・チャールズとの邂逅から得たとされる、クインシー独特のブルース感覚。ただし、それはよく言うブルース・フィーリングとか12小節のブルース・コードとかの枠組みで言い表せる類のものでなく、何と言うか、黒人音楽のルーツへの見果てぬ憧憬を感じさせるような独特の和音や音の並びであって、『Walkin'』や『Sermonette』、『Boo's Bloos』といったブルース・ゴスペル系の曲に限らず、各曲のそこかしこでふっと顔を出す独自の黒いフィーリングのことを言いたいのだが、僕にはうまく言えない。
後のクインシーを知っていて遡及的に語るのは反則だが、それでもやはり、この人はジャズという狭い枠組の中に納まりきらない、ブラック・ミュージック界の巨大な才能だったと言うべきだろう。


割と地味な印象の強いこのアルバムだが、名盤揃いの56年のなかでも極上の重要作だと、僕は思っている。


50年代の100枚リスト

シュガーな俺

シュガーな俺

まったく休眠状態になってしまったこのブログだが、『ラス・マンチャス通信』以来注視してきた平山瑞穂氏の新作『シュガーな俺』を読んだので、メモ代わりにちょっと感想を書いておく。


この作品は(紙の)書籍化に先んじて、8月から電子書籍niftyで連載され(http://www.nifty.com/ebooks/special/sugar/)、現在も連載が続いている。ウェブ上でももう終盤が近いので、全部ネットで無料で読む事も可能だ。@niftyでの連載は、その都度コメントやトラックバックが可能で、つまりブログのフォーマットで書かれているので、まるで平山氏自身のブログ(「黒いシミ通信」→「白いシミ通信」)を読む延長線上の感覚で読めてしまう。この辺は、10年前には考えられなかったような小説のパブリケイションの方法で非常にオモシロイが、小説は紙で読むものという既成概念が染み付いている僕には、ネット上で全部読み通すのはちょっと苦痛で、ネットでの拝読は1/3ほどで断念した。
こうした電子書籍の意義や問題については思うところもあるが、今は触れない。


〜本作は2003年に「糖尿病」と突然宣告された著者自身の経験に基づいて執筆されたオートフィクションである〜と奥付のところに書いてある。オートフィクション?ああ、自伝小説のことか。
でも、この自伝小説ってやつ、たぶん日本の作家にとっては「取扱注意」の対象だったはずで、それはもちろん、あの悪名高い「私小説」というジャンル?と交差してしまうからだ。しかも、テーマが病気、闘病とくればもう・・・。
という心配が杞憂に終わってしまうような、ライトでオモシロイ、エンタメ「闘病記」がこの小説だ。


作家が自分の闘病体験をもとにしたいわゆる「闘病記」というと、古くは谷崎潤一郎の「高血圧症の思ひ出」や高見順の『死の淵より』とか、変り種では江國滋の俳句集『癌め』とか、澁澤龍彦の『都心ノ病院ニテ幻覚ヲ見タルコト』なんかを思い出すが、ビートたけしの『顔面麻痺』なんていうのもそうか。あるいは、これを身内の闘病体験にまで広げれば、大江健三郎が知的障害を持つ長男をめぐるストーリーを連作した『新しい人よ眼ざめよ』なんかはいわばオートフィクションの極北だろう。
で、思うに、文学者による闘病記の類はやはりすこぶる「文学的」である。
なにが「文学的」なのかなんて聞かれても困るが、僕がそういった「闘病記」に感ずる文学的な臭いは、あの「私小説」をめぐる独特の臭いと無関係ではない。


ここで私小説論などをぶつ気は毛頭ないが、僕は、私小説に関するごちゃごちゃした問題の根っこは、作者の側よりも読者の側にあると思っている。作家の意図にかかわらず、この国の読者の多くが小説に求めてきたのは、優れたフィクションなどよりも、いわば作者による「痛切な生活体験の報告書」であって、それゆえ、「作者の生き方についての感銘」を「小説から受ける感銘」と混同する(逆も同じ)、そんな土壌が常に読者の側にあったのだと思う。それが端的に作者側にフィードバックしたものが「私小説」だと・・・。(そりゃやっぱり違うぜ・・・)


この「シュガー」に対する(ブログの)読者の反応などを見ても、やはり、「私が入院した時と同じだ」とか、「うんうん、わかるわかる」、「今後の参考になる」、「その気持ちよくわかる」的な反応が非常に多いのは当然だし、おそらく作者(と周辺の関係者)はそういった読みをあえて誘導している。
で、それにしても、おそらく僕らは、作家の文章としては、この『シュガーな俺』ほど「文学的でない」闘病記を読んだことがない。その辺が、この”小説”のキモなのかもしれない。


糖尿病という病気とその治療法に関する客観的な情報や、実際の食事療法や闘病生活のディテールは圧倒的なリアリティをもって書かれていて(献立・買い物メモの記載例まで付いている)、特にこの病気の体験者やその家族等にとっては、かなりの共感をもって読めるはずだ。
が、これは糖尿病の解説本などではなく”小説”であることを鑑みれば、逆に本来「文学」が突っ込むべき(と思われている)フェイズについて、いかにもおざなりで中途半端なスタンスだと感ずる人がいるだろう。(小説に”真実”を求める読者ほど)


実はこの小説は幾つかの結構重たいテーマ---病気(死)への対峙と絶望、男女(夫婦)間の確執、不倫とSEX、などなど---を含んでいるわけだが、作者の筆はそうした局面での人間の暗部や懊悩について深く切り込むかと思わせた瞬間に、ひょいと身をかわすように飛び去ってしまう。入院患者等の登場人物は(主人公も含めて)ほとんど戯画化され、ほんとうの意味でのリアリティは剥奪されているし、おそらくこの闘病体験が作家平山瑞穂の内奥に与えた本当の苦悩や絶望は、どこかで切り捨てられている。
まるでこの本が「ブンガク」になってしまうのを巧妙に避けているようだ。


僕には、この小説は「私小説」的な道具立てを備えながら、あるいはそのように読ませながら、私小説的な(ブンガク的な)鬱陶しさやかったるさという余分なカロリーを戦略的にカットした”健康食”のようにみえる。問題は、もちろんそれが美味しいかどうか、だ。


文学賞の受賞という青天の霹靂?によって、「塞翁が馬」的になだれ込む一見安易なエンディングを素直に楽しめるか、物足りないと感ずるかが、評価の分かれ目だろう。そして、僕らの人生にとってシュガーとは何なのか、という問いへの答えも読者によって違うわけだ。

先日、父親が急死してしまい、葬儀等のため仙台に行っていました。しばらくは、残された母親と愛犬リーベの今後の事とか、各種の手続きのため川口と仙台の往復が続きそうです。
というわけで、またまたこのブログの維持が難しくなりそう・・・。


オヤジは享年80歳でしたが、元来のあたらし物好きで、コンピュータやインターネットやメールやデジカメもやっていました。多趣味で、ゴルフを止めてからは、書道に囲碁に俳句・・・最近は特に俳句に熱中していたようで、オヤジのコンピュータを整理していたら、俳句の山が出てきました。そのうち、整理して一冊の句集にしてやりたいなぁ、などと考えています。

(52) Basie In London (1956) / Count Basie

ベイシー・イン・ロンドン+4

ベイシー・イン・ロンドン+4

みちのく一関には「ベイシー」という超有名なジャズ喫茶(&ライブスポット)があるが、僕が育った仙台にも「カウント」という老舗があって(今は2代目のマスターのようだ)、僕が高校生の頃よく通ったものだった。ほとんど僕のジャズ体験の原点といっていいこの店は、もちろんリアルタイムの話題作(70年代)や60年代のモード系・フリー系のジャズもよく掛けたが、それでも日に何回かは(一種の口直しか?)必ずカウント・ベイシーのフルバンドを大音響で鳴らすのだった。
僕にとってのベイシー・サウンドは、この「カウント」の馬鹿デカイ”ALTEC”のスピーカーから強烈な風圧とともに流れてくる音であって、だからLPなどを買い込んで自宅のしょぼいオーディオ装置で聴く気など微塵も起きなかった。村上春樹が言った「カウント・ベイシーの音楽は事情が許すかぎり大きな音で聴いたほうがいい」という言葉は、僕にはあまりにリアルな響きがあったりするのだ。


で、数年後、札幌で大学生をやっていた僕は偶然ベイシー楽団のライブを見た。確か厚生年金会館だったと思うが、僕の友人が地元の準主催者の知合いで、何故か僕は舞台裏でピアノ等の運搬移動に駆り出され、そのドサクサに紛れて脇の通路で立ち見(タダ見)をしたのだった。
この時の音楽の印象はもう記憶の彼方だが、たったひとつ頭に焼きついているのが、舞台中央やや左に鎮座して、ギターの表を思い切り上に向けてリズム・ギターをかき鳴らす、フレディ・グリーンの姿だった。
それ以来僕は、ベイシー・バンドの稀有さというのは、音楽の表面にはほとんど聴こえてこないこのリズム・ギターが、音楽の全体を見事に仕切ってしまっているという、ほとんど魔法のようなバンドである、という考えに取り付かれてしまい、今だもって取り付かれている。


この56年のヨーロッパでのライブ盤でも、ジョー・ニューマンやフランク・フォスターといったソリストの巧みさもさることながら、圧倒的なのはホーン・セクションのアンサンブルの何ともいえない一体感であって、それは、交響楽団の一糸乱れぬ合奏の妙技とは全く次元の違う話である。この一体感とは、音やリズムやテンポがぴったり合っているとかいうこととは全然関係なくて、プレイヤー全員が全く同じ”ノリ”で演奏しているから、多少音がずれていようが、誰かが音符を間違えようが、どうしようもなく一丸となった音の塊として聴こえてきてしまうのだ。で、オチはもちろん、この怒涛のノリと一体感を魔法のように支えているのが、フレディ・グリーンのリズム・ギターだ、ということなのだ・・・。


この「イン・ロンドン」は、実はロンドンでの録音ではなく、音源はスウェーデンのエーテボリという都市で収録されたもので、ベイシーはこのジャケット撮りのためにロンドンへの小旅行を敢行したりしているから、ほとんど確信犯的な偽表題である。が、初っ端の「ジャンピン・アット・ザ・ウッドサイド」や2曲目の「シャイニィ・ストッキングス」で早くも盛り上がりメーターのピークを示す観客が、ロンドンっ子だろうがエーテボリっ子だろうが、このライブの楽しさには変わりがなくって、CDを聴く僕たちはこの興奮と幸福を少しでも分けてもらえばそれでいい。
おそらくこのライブ会場にいた聴衆の大部分は、帰宅時にもう何とも言えない幸福を噛みしめながら帰っただろうし、その幸福は3日は続いただろうと、確信する。


50年代の100枚リスト

(51) 'Round About Midnight At The Cafe Bohemia (1956) / Kenny Dorham

カフェ・ボヘミアのケニー・ドーハム

カフェ・ボヘミアのケニー・ドーハム

チャーリー・パーカーのレギュラー・クインテットジャズ・メッセンジャーズの初期メンバーとして、40年代末から50年代中葉のジャズ・シーンの重要な場面にちょくちょく顔を出していたケニー・ドーハムだが、僕らのイメージとしてはこの人どこか二番手ピッチャーという感じが強い・・・という話は前に書いたが、そのドーハムが満を持して?自らのリーダーシップで結成(1956)したのが”ジャズプロフェッツ”というクインテットだった。
が、この年の6月に急死したクリフォード・ブラウンの後釜として、まもなくリーダーのドーハムがマックス・ローチのグループに参加したため、このユニットは自然消滅し、ひどく短命に終わってしまう。遺したのはたった2枚のアルバムで、その名も『ザ・ジャズ・プロフェッツ』と銘打ったスタジオ録音盤(ジャケットにはVol.1となっているがVol.2は無い)と、この『カフェ・ボヘミアケニー・ドーハム』というライブ盤である。というわけで、”ジャズプロフェッツ”はフロントの一翼を担ったJ.R. モンテローズという稀有なテナー奏者とともに、50年代の幻のユニットの一つとして歴史に刻まれることになる。


この辺のドーハムの動向は、50年代中葉のジャズ・シーンの状況を示唆しているような気がしないでもない。当時のいわゆるハード・バップをリードした主要な流れは3つあって、一つはマイルス・デイヴィスのグループ、もう一つはアート・ブレイキーホレス・シルヴァーを中心としたジャズ・メッセンジャーズの流れ、そしてもう一つがマックス・ローチクリフォード・ブラウンの双頭コンボだったのだと思う。ブラウニーの死でこの鼎の一足が欠けた。ドーハムとしては、自らのコンボに固執して鳴かず飛ばずで終わるよりは、この三本柱の一つに参加できるならばそっちの方がジャズシーンの第一線で活躍できる、と感じたのかも知れない。あるいはそんな計算ずくは全くなく、パーカー・バンド以来のマックス・ローチへの恩義と信頼から馳せ参じただけなのかもしれない・・・。


と、そんな空想をめぐらしてもしょうがないので、このアルバムのことを書く。


”ジャズプロフェッツ”のライブ盤と言ったが、これはチョット正確ではない。というのも、このライブでは、初代のピアニストだったディック・カッツがすでにボビー・ティモンズに交替しているのと、デビュー間もないギタリスト、ケニー・バレルが参加しているからだ。バレルは、この日幾つかあったステージの途中から参加したらしいが、プレイは好調そのもので、本体のクインテットの存在を食ってしまいそうな勢いだ。バレルのデビュー盤は同じブルーノートの『イントロデューシング・ケニー・バレル』で、このライブの前日・前々日の録音だから、デビューの勢いをかってこのライブ・パフォーマンスに臨んだといっていい。キャンディドのコンガ入りのややユニークなリズムで演った『イントロデューシング・・・』よりも、こちらの方が、よりオーソドックスでストレートなバレル初期の演奏が聴ける、と言っていいかも知れない。


当のドーハムのトランペットに関せば、54年にJMの初代トランペッターとして参加した『カフェ・ボヘミアジャズ・メッセンジャーズ』などを聴くと、かなり目いっぱいハードに吹いていたような気がするが、この日のライブでは、高音域はかなりブリリアントなトーンでブロウしているものの、中音域はやや音量を落としてダークなくぐもった音でもって、あえてコントラストをつけているような感じがする。この辺は、『静かなるケニー』あたりに至る傾向かと思う。
テナーのJ.R.モンテローズは、チャールズ・ミンガスの『直立猿人』でジャッキー・マクリーンと共にフロントを飾った奏者だが、このジャズプロフェッツの2枚のアルバムの後、『J.R.モンテローズ』というリーダー作をブルーノートに残す。が、その後鳴かず飛ばずのままジャズ・シーンの一線からほとんど姿を消してしまう。
このモンテローズのやや朴訥でギクシャクっぽいテナーを、斬新と見るか聴きづらいだけと取るかは意見の分かれるところだろうが、その辺は『J.R.モンテローズ』をレヴューする機会が(多分?)あると思うので、その時になにか書いてみようと思う。


チュニジアの夜」や「ニューヨークの秋」を取り上げた流れで、地名ノリでしゃれてみたのか、「モナコ」や「メキシコ・シティ」といった地名チューンが並んでいるが、「メキシコ・シティ」という曲は明らかにバド・パウエルの「テンパス・ヒュージット」と同曲だし、「モナコ」もどこかで聴いたことがあるような、ないような・・・。


50年代の100枚リスト

盆明けから身辺異様に忙しく、ブログどころではなかったわけで・・・というのはもちろん言い訳に過ぎず、日に1時間や2時間は自分の時間はあったし、土日もそれなりに暇はあったのですが、何て言うんでしょう? 要するに、生きることに対するモチベーションがひどく減退していて、な〜んにもしたくない、という状況がずっと続いておりました。こういうフニャフニャのコンニャク状態は年に1、2回やってきて、そうなると何か生産的なことを考えたりやったりすることが微塵もできなくて、いやそれ以前に本を読んだり音楽を聴いたりすることも億劫でほとんどできません。
「50年代の100枚」もせっかく半分を越えたので、ここで止めてしまうのももったいないなぁ・・・というわけで、たぶん、間もなく復活できると思います、たぶん、きっと・・・。

(50) At the Stratford Shakesperean Festival (1956) / Oscar Peterson

エド・シグペン(ds)が入ってノーマルなピアノ・トリオになってからのオスカー・ピーターソンは、あまりに完璧なテクニックと強烈なドライヴ感で聴き手を圧倒するようなプレイが多く、僕なんかは2、3曲聴くと何故か疲れてしまって後が続かなくなる。いやリラックスした演奏ばかりじゃないか、と言われるかもしれないが、そのリラックスした雰囲気自体があまりに完璧すぎて、やはり疲労を誘う。律儀で隙のないリラックス感・・・完全無欠のリラックス感というのだろうか。これもやっぱり疲れるのだ。結局のところ、(僕にとっては)ジャズには多少の”ずぼら”さと”いいかげん”さと”だらけ”が必要で、適度の破綻と不調和が不可欠だ、と勝手に思う。


一方、初期のピーターソン・トリオは、ピアノ(ピーターソン)、ギター(バーニー・ケッセルハーブ・エリス)、ベース(レイ・ブラウン)のドラムレス編成で、後のトリオ演奏とはかなりニュアンスが違っている。このドラムレスのP・G・B編成は58年頃まで続くが、そのピーク時の56年にカナダのオンタリオで催されたライヴ演奏を収めたのがこのアルバムである。
カナダ生まれのピーターソンが、ノーマン・グランツに見出されJATPコンサートやVERVE系レーベルへの吹き込みで一世を風靡した後、いわば凱旋帰国したライヴ盤だから、会場も盛り上がっているし、ピーターソンをはじめとするメンバー達も元気いっぱいに盛り上がっている。で、もちろんピーターソンの超絶技巧による絢爛たるピアノが聴けるわけだが、ピーターソンの一人舞台という印象が意外に少ないのは、やはりピアノ=ギター・トリオという編成の賜物だろう。ピアノとギターのアンサンブルや掛け合いにも色んな仕掛けが施してあるし、ピーターソン・エリス・ブラウンという3名人のインタープレイという要素が強い。時折、タル・ファーロウのギター=ピアノ・トリオを彷彿とさせるような粗野でアーシーな響きも聴こえ、後のピーターソン・トリオでは味わえない風情を楽しめる。ライヴならではのアンサンブル・ミスや掛け合いのズレもたまにあって、それを笑ってごまかすようないいかげんな雰囲気がまた楽しい(^o^;


40年代にドラムレスのピアノ・トリオ(ピアノ、ギター、ベース)で一世を風靡したのはナット・キング・コールだった。これを受けてアート・テイタムや初期のアンドレ・プレヴィンなんかもこの編成でやっていたと思うが、バド・パウエル以降の右手のシングル・トーンに頼るスタイルではこれが難しくなった。ピーターソンのアイドルはナット・コールだったから、彼は当然のごとくコールのスタイルを踏襲したのだろうし、十分プロで通用するコールそっくりのヴォーカルもこの表れだろう。ピーターソンとナット・キング・コールが、お互いのピアノとヴォーカルのスタイルがバッティングするので、ピーターソンはピアノ、コールはヴォーカルを主とするという紳士協定を結んだという話がまことしやかに言われるのも、コールの影響がいかに大きかったかを示すものだ。
50年代後半以降のピーターソンは、当然(ハード)バップ・スタイルの影響も受けてそれなりにモダンなスタイルで弾いたが、根っこには前時代のスウィング・スタイルが明らかにあって、60年代のモダンぶった演奏などを聴くとかえって古臭く感じる。むしろ、コールマン・ホーキンスベン・ウェブスター等スウィング期の巨匠との競演盤や、『エラ・アンド・ルイ』とか『アニタ・シングス・ザ・モスト』のような歌伴でのシブいプレイに、このピアニストの本性が見えるような気がする。


50年代の100枚リスト