シュガーな俺

シュガーな俺

まったく休眠状態になってしまったこのブログだが、『ラス・マンチャス通信』以来注視してきた平山瑞穂氏の新作『シュガーな俺』を読んだので、メモ代わりにちょっと感想を書いておく。


この作品は(紙の)書籍化に先んじて、8月から電子書籍niftyで連載され(http://www.nifty.com/ebooks/special/sugar/)、現在も連載が続いている。ウェブ上でももう終盤が近いので、全部ネットで無料で読む事も可能だ。@niftyでの連載は、その都度コメントやトラックバックが可能で、つまりブログのフォーマットで書かれているので、まるで平山氏自身のブログ(「黒いシミ通信」→「白いシミ通信」)を読む延長線上の感覚で読めてしまう。この辺は、10年前には考えられなかったような小説のパブリケイションの方法で非常にオモシロイが、小説は紙で読むものという既成概念が染み付いている僕には、ネット上で全部読み通すのはちょっと苦痛で、ネットでの拝読は1/3ほどで断念した。
こうした電子書籍の意義や問題については思うところもあるが、今は触れない。


〜本作は2003年に「糖尿病」と突然宣告された著者自身の経験に基づいて執筆されたオートフィクションである〜と奥付のところに書いてある。オートフィクション?ああ、自伝小説のことか。
でも、この自伝小説ってやつ、たぶん日本の作家にとっては「取扱注意」の対象だったはずで、それはもちろん、あの悪名高い「私小説」というジャンル?と交差してしまうからだ。しかも、テーマが病気、闘病とくればもう・・・。
という心配が杞憂に終わってしまうような、ライトでオモシロイ、エンタメ「闘病記」がこの小説だ。


作家が自分の闘病体験をもとにしたいわゆる「闘病記」というと、古くは谷崎潤一郎の「高血圧症の思ひ出」や高見順の『死の淵より』とか、変り種では江國滋の俳句集『癌め』とか、澁澤龍彦の『都心ノ病院ニテ幻覚ヲ見タルコト』なんかを思い出すが、ビートたけしの『顔面麻痺』なんていうのもそうか。あるいは、これを身内の闘病体験にまで広げれば、大江健三郎が知的障害を持つ長男をめぐるストーリーを連作した『新しい人よ眼ざめよ』なんかはいわばオートフィクションの極北だろう。
で、思うに、文学者による闘病記の類はやはりすこぶる「文学的」である。
なにが「文学的」なのかなんて聞かれても困るが、僕がそういった「闘病記」に感ずる文学的な臭いは、あの「私小説」をめぐる独特の臭いと無関係ではない。


ここで私小説論などをぶつ気は毛頭ないが、僕は、私小説に関するごちゃごちゃした問題の根っこは、作者の側よりも読者の側にあると思っている。作家の意図にかかわらず、この国の読者の多くが小説に求めてきたのは、優れたフィクションなどよりも、いわば作者による「痛切な生活体験の報告書」であって、それゆえ、「作者の生き方についての感銘」を「小説から受ける感銘」と混同する(逆も同じ)、そんな土壌が常に読者の側にあったのだと思う。それが端的に作者側にフィードバックしたものが「私小説」だと・・・。(そりゃやっぱり違うぜ・・・)


この「シュガー」に対する(ブログの)読者の反応などを見ても、やはり、「私が入院した時と同じだ」とか、「うんうん、わかるわかる」、「今後の参考になる」、「その気持ちよくわかる」的な反応が非常に多いのは当然だし、おそらく作者(と周辺の関係者)はそういった読みをあえて誘導している。
で、それにしても、おそらく僕らは、作家の文章としては、この『シュガーな俺』ほど「文学的でない」闘病記を読んだことがない。その辺が、この”小説”のキモなのかもしれない。


糖尿病という病気とその治療法に関する客観的な情報や、実際の食事療法や闘病生活のディテールは圧倒的なリアリティをもって書かれていて(献立・買い物メモの記載例まで付いている)、特にこの病気の体験者やその家族等にとっては、かなりの共感をもって読めるはずだ。
が、これは糖尿病の解説本などではなく”小説”であることを鑑みれば、逆に本来「文学」が突っ込むべき(と思われている)フェイズについて、いかにもおざなりで中途半端なスタンスだと感ずる人がいるだろう。(小説に”真実”を求める読者ほど)


実はこの小説は幾つかの結構重たいテーマ---病気(死)への対峙と絶望、男女(夫婦)間の確執、不倫とSEX、などなど---を含んでいるわけだが、作者の筆はそうした局面での人間の暗部や懊悩について深く切り込むかと思わせた瞬間に、ひょいと身をかわすように飛び去ってしまう。入院患者等の登場人物は(主人公も含めて)ほとんど戯画化され、ほんとうの意味でのリアリティは剥奪されているし、おそらくこの闘病体験が作家平山瑞穂の内奥に与えた本当の苦悩や絶望は、どこかで切り捨てられている。
まるでこの本が「ブンガク」になってしまうのを巧妙に避けているようだ。


僕には、この小説は「私小説」的な道具立てを備えながら、あるいはそのように読ませながら、私小説的な(ブンガク的な)鬱陶しさやかったるさという余分なカロリーを戦略的にカットした”健康食”のようにみえる。問題は、もちろんそれが美味しいかどうか、だ。


文学賞の受賞という青天の霹靂?によって、「塞翁が馬」的になだれ込む一見安易なエンディングを素直に楽しめるか、物足りないと感ずるかが、評価の分かれ目だろう。そして、僕らの人生にとってシュガーとは何なのか、という問いへの答えも読者によって違うわけだ。