三つの棺 The Three Coffins (1935)

三つの棺 (ハヤカワ・ミステリ文庫 カ 2-3)

三つの棺 (ハヤカワ・ミステリ文庫 カ 2-3)

突然現れた黒装束の男の訪問予告に、酒場で吸血鬼談義をしていたグリモー教授の顔色は蒼ざめた。三日後、雪の中を謎の人物が教授を訪れた。教授の部屋から聞えた銃声にフェル博士らがかけつけると、教授は胸を撃ち抜かれ、客の姿は密室状態の部屋から消えていた! 史上名高い〈密室講義〉を含むカー不朽の名作。(早川ミステリ文庫)

言語の「自己言及」にまつわるパラドックスは極端なところではゲーデルの「不完全性定理」までイってしまうが、文学の上では、メタ・フィクションなる自己言及小説が大流行した時期があって(今もそうか?)、ミステリの分野でもメタ・ミステリというのが随分持てはやされたりして、猫も杓子もメタ・メタとうるさいので僕はちょっと辟易していたのだった。
で、この小説中の有名な「密室の講義」という一章であるが、ここでカーは「われわれは推理小説の中にいる人物であり、・・・」云々とフェル博士に大上段からメタ的な発言をさせていて、これに飛びついてこれをメタ・ミステリのはしりだと評する向きもあるようだが、もちろんそれは失当である。


この「密室の講義」の密室トリック分類自体は、分類基準がやや錯綜していて論理的な分析とは言いがたいが、冒頭で前記のメタ発言により小説の枠組をぶち壊してまで言いたかったことは何なのか、そこは注意しておく必要がある。
カーは、別の作品でも登場人物に言わせているが、大のロシア嫌いである。19世紀のロシア小説的なリアリズムが大嫌いなのである。はっきり言えばドストエフスキーである。それから、この時期はまだ長編デヴューしていないが、チャンドラーのハードボイルド小説も大嫌いで、後に低俗なリアリズムとしてケチョンケチョンに貶している。この時期、ヘミングウェイ的なハードボイルド手法はハメットを介してチャンドラーに伝染してゆく過程にあったと思うが、カーはすでにその予兆をはっきり感じていたのだろう。
カーがフェル博士に「われわれが探偵小説を好む大きな理由は、ありそうにないことを好むからなのだ」と明言させたのは、もちろん、この時期顕著になってきた自己の密室モノをはじめとする不可能犯罪への嗜好を擁護するためだが、その根本には自分の書く小説が近代リアリズムの対極にある物語、すなわちファンタジー(あるいはロマンス)の一種であるという確信がある。
で、あとはグダグダ言わず、それでいいのだ!・・・と開き直って揺るがない。この不動のカーの雄姿が、案外、時代を経ていまだに「探偵小説を好むわれわれ」の拠り所になっていたりするのだ。


この小説のプロットとトリックは見事に計算されて密接に絡み合っているので、どこかを明かせば芋づる式にバレてしまう恐れがあるので、本筋には触れないでおく。トリックの根本は、カー得意の「コロンブスの卵」的な発想の転換であり、どこかで根こそぎひっくり返さないと解は見えてこない。このひっくり返しと犯人をめぐるどんでん返しがまた密接に連関するところが、うまい。
メインのトリックの仕掛けには幾つか無理があるが、それでもやはり、「探偵小説を好むわれわれ」にとっては古今東西のミステリの中でも屈指の傑作である。


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