プレーグ・コートの殺人 The Plague Court Murders (1934)

プレーグ・コートのプレーグ(Plague)とはペストのことで、ヨーロッパでは14世紀に大陸中を席巻し全人口の3割が死んだという大流行が有名である。体中が黒紫色に変色し死に至ることから黒死病(The Black Death)とも呼ばれ、あらゆる災厄の中でも最も恐れられる疫病だった。カーのこの作品も『黒死荘殺人事件』と邦題をつけられたことがある。
14世紀以降も何度かペストの大流行があったが、英国人にとっては17世紀中葉にロンドンで猛威をふるったペストが最大の恐怖だった。このロンドン・ペストについては、ダニエル・デフォーが『ロビンソン・クルーソー』の3年後に書いた『疫病の年(A Journal of the Plague Year)』というドキュメンタリー(・・・風フィクション)の傑作があり、その後の英国人(あるいは欧州人)のペストに対するイメージはこの本に負うところが大きい。*1カーも間違いなくこの本を読んでいたにだろうが、古い書簡の形で挿入されるロンドン・ペスト流行時の描写の生臭いリアリティーは圧巻である。


ルイス・プレージという絞刑吏が刑死体の処理に使い、ペストの流行時には病気を媒介するとされた犬・猫・豚等の動物を虐殺するのに使われた千枚通し風の短剣。そして、家人を呪いながらペストで死んだプレージの死体が埋まっているとされる「プレーグ・コート」。その敷地の一角に建つ石室。そこで催される交霊会と悪霊払いの儀式。首を切断された猫の死骸。---前半で描写されるこうした怪奇趣味とオカルティズムに満ちたシチュエーションが、密室トリックや殺害方法と密接に連関し、しかも巧妙なミスディレクションになっているところがこの小説の成功の理由だろう。


カーター・ディクスン名義の中心キャラとなるヘンリー・メルヴェール(H.M.)卿の初登場となるこの作品だが、卿が出てくるのはほぼ半分を過ぎたあたりからだ。前半で醸しだされる怪奇趣味と不可能興味が、敵軍を目一杯引きつけておいて一斉射撃するかのごとく、後半でのH.M.の快刀乱麻の活躍を浮き立たせる。


メインの密室トリックは、もうほとんど古典的に有名だが、「そんなのズルイ!」って感じで悪名も高い。で、このいささか陳腐で即物的なトリックがある程度違和感なく成り立ってしまうのも、前半のルイス・プレージに纏わる執拗な雰囲気作りの賜物であることが、読んだあとわかる。


要するに、一発トリックをはめ込むための土台作りに本の半分を使っているわけだ。人を騙すために必死で雰囲気と伏線を構築していくカーの根性と執着心には恐れ入る。日本サッカーチームにこのぐらいゴールへの執着心があればなぁ・・・(^o^;


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*1:カミュの『ペスト (新潮文庫)』は、
「ある種の監禁状態を他のある種のそれによって表現することは、何であれ実際に存在するあるものを、存在しないあるものによって表現することと同じくらいに、理にかなったことである」
というやや意味不明のデフォーの引用から始まる。
なお、デフォーの”A Journal of the Plague Year”を栗本慎一郎が抄訳し解説をつけた『ロンドン・ペストの恐怖 (地球人ライブラリー)』という本が最近でている。