盲目の理髪師 The Blind Barber (1934)

大西洋航路の豪華船の中で二つの大きな盗難事件が発生し、さらに奇怪な殺人事件が持ち上がる。なくなった宝石が持ち主の手にもどったり、死体が消えたり、すれちがいと酔っぱらいのドンチャン騒ぎのうちに、無気味なサスペンスと不可能犯罪のトリックが折りこまれている。カーの作品中でも、もっともファースの味の濃厚な本格編である!(創元推理文庫

この雰囲気、フランス語源のファースと言うよりはアメリカ流のスラップ・スティックって感じか? うーん、それもちょっと違うなぁ・・・多分この雰囲気は昔英国で流行った「バーレスク」ってやつに近いんじゃないだろうか。もったいぶった権威者を茶化したり嘲笑したりするスタンスや、流行歌みたいなものを盛んに挿入するところ、そもそも殺人というかなり重大な出来事をコミックの対象にしてしまうあたりは、フィールディングのバーレスク・ドラマを髣髴とさせるではないか?・・・ってちょっと、言いすぎか。
でも、この小説、イギリスでは絶賛されたのに、アメリカではちっともうけなかった、っていうあたりはお笑いのお国柄が大いに関係しているに違いない。まあ、チャップリンの「街の灯」や「ライムライト」は異常にうけても、その初期の怒涛のスラップスティックとかキートンマルクス兄弟のドタバタはほとんど相手にされない日本のお国柄では、このカーのたぐい稀なコミック・ミステリが評価の対象になることはまずありえないだろう。


そういえば前作『剣の八』でもフェル博士が変装して演じるドタバタや、ドノバン・ジュニアが帰国の客船内で酔っ払ってハチャメチャをやり船倉に隔離されたという逸話があったが、すでにこういったアイディアはカーの頭の中では膨らんでいたのだろう。それがこの小説ではエンジン全開で行くところまで行ったっていう感じだ。よく翻訳の難を指摘されるが、井上氏の訳はそこそこ善戦していると思う。関西弁や「ざあます」言葉まで駆使してなんとか戯画的な雰囲気を出そうとした訳者の涙ぐましい努力は買ってあげなくちゃ・・・。
カーもここまでやっちゃってくれちゃったわけだから、つべこべ言わずにこの怒涛のドンチャン騒ぎに身をまかせるしかないでしょ・・・。


洋上の豪華客船、ということは一種の閉鎖状況なわけで、カー得意の不可能トリックが炸裂するかと思いきや、さにあらず、特に複雑なトリックは出てこない。その代わり、ここでの趣向は、ヘンリー・モーガンの体験談のみから謎を推理する、つまりフェル博士は完全な「アームチェア・ディテクティヴ」の役割に徹する。ドンチャン騒ぎでグチャグチャにされた宝石泥棒と殺人をめぐるプロットを、フェル博士が16のキー・ポイントで整理し謎を解き明かす解決部分は、ちょっと短いが、オーソドックスなフー・ダニット物の典型になっている。


ともあれ、このドタバタ小説、ユーモア・ミステリというジャンルがあるとすれば、5本の指に入る傑作なのでは、と思ったりするのだが(?)、いずれにしても絶版状態なのが残念だ。


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