弓弦城殺人事件 The Bowstring Murders (1933)

イングランド東部の荒れ果てた海岸に臨む古城ボウストリング――夜な夜な幽霊が現われるというこの奇怪な古城に二人の客が訪れた夜、甲冑室で起った密室殺人――しかも容疑者は殺されたレイル卿の愛娘だった! ヘンリー・メリヴェール卿の前身といわれる犯罪学者、ジョン・ゴーント博士登場の古典的作品。(ハヤカワ・ミステリ文庫)

この『弓弦城殺人事件』は、カーター・ディクスン名義(初版と第二版はカー・ディクスン名義)で出版された最初の作品であると同時に、ジョン・ゴーントとという探偵キャラを使った唯一の小説でもある。
このあたりの探偵役の変遷を見てみると、1932年の『蝋人形館の殺人』を最後にバンコラン物を一旦中止し、同年『毒のたわむれ』でパット・ロシター、1933年には『魔女の隠れ家』でフェル博士を登場させ、その直後にこの『弓弦城殺人事件』でジョン・ゴーント博士、さらに翌年『プレーグ・コートの殺人』でH.M卿の初登場と、目まぐるしく新しい探偵キャラを創出している。

カーター名義の使用は、基本的には出版社との契約上の都合だったのだろうが、この時期のカーは1932年に結婚して翌年イギリスに渡り、子供も生まれて私生活も多忙だったはずだが、逆に年2作ペースの出版では物足りず、この後2つの名義でほぼ年3〜4作ペースで旺盛な執筆を続けていくことになる。ミステリ作家として食っていくしかない、という決意の表れだろうか・・・。

こういった環境の激変が作家としてのスタンスにも影響を及ぼしたことは想像に難くない。探偵キャラの創出もそうだが、イギリスというトポスに由来するモチーフや様々なガジェット、作品のテーマやトリックにしても、この時期とにかく色々と試行錯誤を繰り返している。その結果として、最終的にはディクスン・カー名義のフェル博士とカーター・ディクスン名義のH.M卿がメイン・キャラとして固定化していくわけだが、その過程で切捨てられたのがパット・ロシターとジョン・ゴーントだったわけだ。


古城「弓弦城」の描写は『髑髏城』の雰囲気を髣髴とさせ、立ち並ぶ「甲冑」は『蝋人形館の殺人』での蝋人形の不気味さに照応していて、カーらしいおどろおどろしい空気を醸すが、なにしろ探偵役のゴーントの印象が希薄で、それが作品全体の印象の薄さに通じている。
メインのトリックは、「密室」というには穴があり過ぎ・・・というか、この状況の目撃者たるテヤレインの証言があまりにも不自然なので、納得できる読者は少ないだろう(^o^;
が、ここでの設定のように、ひどく錯綜した要素を綱渡り的にからめて作り出す不可能状況というのは、まったくカーの独壇場であって、他に誰がこんな複雑で面倒くさいシチュエーションを考えつくだろうか、と思ってしまう。もしこれがうまくいってピタっと嵌まれば、傑作をモノにすることになるが、残念ながらここでは成功しているとは言い難い。
いずれにしても、この後カーはこういった複雑無比なプロット作りをどんどん推し進めていくことになるわけで、そういう意味では頗るカーらしい小説といえる。


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