(19) Black Coffee(1953-56) / Peggy Lee

ブラック・コーヒー

ブラック・コーヒー

  • アーティスト: ペギー・リー,ピート・カンドリ,ジミー・ロウルズ,マックス・ウェイン,エド・ショーネシー
  • 出版社/メーカー: ユニバーサル ミュージック クラシック
  • 発売日: 2005/09/14
  • メディア: CD
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むかし、ペギー・リーはポップ・シンガーでジャズ・シンガーじゃないとか、いやベニー・グッドマンのバンド・シンガーだったから立派なジャズ歌手だとか、めちゃくちゃ不毛な議論を聞いたことがあるが、失礼な話だ。
BGでのペギー・リーは立派なバンド・シンガーだったし、この『ブラック・コーヒー』や『Beauty & The Beat』での彼女は立派なジャズ・シンガーだったし、もちろん「Manana」や「Fever」では立派なポップ・シンガーだった。『Johnny Guitar(大砂塵)』のサントラを知らない人はいないし(いるか?)、映画『Pete Kelly's Blues』ではアカデミー賞を惜しくも逃したものの立派な演技を披露した。ディズニーの『わんわん物語』では、声優としても、ソングライターとしても、シンガーとしても素敵な仕事を残したし、彼女の『Xmas Carousel』はアメリカでは一家に一枚のクリスマス・アルバムだった。


というわけで、フランク・シナトラと同様、ペギー・リーを一介のジャズ・シンガーとして論ずるなどナンセンスな話なのだが、それでも、たまには敢えて「ジャンル」にこだわってみると見えてくるものもある。
いったい”ジャズ”ヴォーカルってなんなのか、他のヴォーカルとどこが違うのか、境目はどこにあるのか?
優等生的な答えはたぶん、「ジャズ・ヴォーカルは人間の声を一つの楽器とみなして演奏するもので、単なる伴奏+歌ではなく、一つのバンドの中で他の楽器と対等のかけ合いやコラボレーションを生ずるようなヴォーカル・スタイルだ」ということになるだろう。
例えば、サラ・ヴォーンの「枯葉」を聴いてみよ。テーマも歌詞も完全無視でしょっぱなからスキャットで押し通す。完全に声を楽器として使った演奏だ。
前にリー・ワイリーのところでも書いたが、そういう意味での「ジャズ・ヴォーカル」は黒人の独壇場で、50年代でも、エラ・フィッツジェラルドサラ・ヴォーン等の黒人シンガーと渡り合える白人シンガーなどいなかった。


でも、ふと考えてみると、人間の声にはもともと言葉を伝える役割があったわけだし、リー・ワイリーとかペギー・リーの歌を聴いていると、”歌う”こと、すなわち詩とメロディーを伝えるという歌の本来の姿に徹することで、「声=楽器」奏法にはないヴォーカルの魅力を発散しているなぁ、とこの歳になってあらためて思ったりする。
たかがトーチ・ソング、惚れた腫れたのマンネリ歌詞なんかどうでもいいじゃん、と言われるか?

I'm moaning all the morning moaning all the night
And in between it's nicotine
And not much heart to fight
Black coffee, feeling low as the ground
It's driving me crazy waiting for my baby
To maybe come around

1949年のサラ・ヴォーンの「ブラック・コーヒー」と比べてみれば、このしつこいぐらい韻を踏む歌詞を、ペギー・リーがいかに一語一語丁寧に歌っているかわかるだろう。それはこのスロー・ブルースやバラッドではもちろん、インテンポの曲でさえそうなのだ。例えば「I Didn't Know What Time It Was」でも、スローテンポのヴァースからインテンポに移っても少しも発音の明瞭さを失わない。フェイクやアドリブのために歌詞を犠牲にすることはしない人なのだとわかる。


昔から英語のヒアリングが苦手な僕にも十分聞き取れる、ペギー・リーのこの『ブラック・コーヒー』というアルバムで、僕は「I've Got You Under My Skin」や「Easy Living」や「Love Me or Leave Me」等の歌詞を覚えた。このアルバムをたまに聴くと、むかし習った英語の教科書を開くような奇妙な感覚を覚えるのだった・・・。


で、ジャズかジャズでないかなど、やはりどうでもいいに決まっている。


50年代の100枚リスト