毒のたわむれ Poison in Jest (1932)

……ぼくはその時、どんな動機であんなことをする気になったのか分からない。思わず知らずやってしまった所を見ると、おそらく昔のおぼろな衝動に促されたからだろう。昔トム・クエイルとぼくが使った合図のノックである。コツコツと二度ゆっくり叩いてから、手早く三度。ぼくは図書室のドアに向かってそうしていた。
「誰だ?」と詰問する声がした。
ぼくはドアを押し開けた。クエイル判事が火先に顔を赤く染めて立っていた。血の気のない指がダラリとたれて、ビクビクと痙攣している。埃まみれのあの愚かしい大理石像が、判事の後ろから目をぎょろつかせているように見えた。判事が言った。その顔が蒼白だった。
「絶対そんなノックをするんじゃない、分かったな?絶対にするんじゃないぞ!」
不可能犯罪の巨匠カーが描く怪奇味と神秘感に満ちた雪の夜の連続毒殺事件!
(ハヤカワポケットミステリ357)

1950年代頃、江戸川乱歩の貢献もあってJ.D.カーはちょっとしたブームを迎え、ポケミスを中心に多くの翻訳が出されたが、僕がカーを読みふけった70年代後半には、主な人気作品を除いてはほとんどが絶版状態だった。古本屋を探し回るほどのカー・マニアでもなかった僕は、簡単に手に入る20冊ほどを読んで、その後ほとんど読まなくなった。
先日カーの長編リストを作りながら入手可能度を調べていたら、驚いたことに、今はカーの長編70冊余の内50冊ほどが書店で簡単に買えるようだ。隔世の感っていうやつだ。
で、最近では数少ない入手困難本の1冊がこの『毒のたわむれ』で、先日、昔よく行った(ポケミスの揃えがいい)古書店に寄ってみたがなかったので、アマゾンのユーズド商品で1冊だけ出ていたやつを4000円也の大枚をはたいて買ってしまった。


カー自身が「私の最大の失敗作」と慙愧したと伝えられるこの作品、まことに駄作の名に恥じない不出来ぶりだ。やはりこの翻訳も50年代のもので、訳文の鬱陶しさもあるが、カーの筆致は僕らがミステリとして読むにはあまりにカッタルい。舞台はほぼ1軒の家の中に限られ、その狭いスペースの中で人物の動きや会話を操る文体が、だらだらとテンポなく続きイライラを募らせる。誰かが2階から1階に移動する間に5ページも費やされると、リーダビリティーはおそろしく激減する。
カーのカッタルい文体は、ある意味文学的ではあるが、作家のテクニックとしては、人物の行動を描写する部分と情景描写・心理描写や薀蓄部分は最低限はっきり分離すべきだ。その辺が、後々まで引きずるカーの文筆家としての致命的な弱点だった、とこの作品を読んで否応なしに思う。
カーの専売特許の一つである怪奇趣味を醸すモチーフは、ここでは動き回るカリギュラ像の片手ということなのだが、これにまつわるローマ帝政初期の毒殺事件やボルジア家やハムレットを巡る消息や薀蓄は、取ってつけたようで、恐怖を煽るネタになりきっていないし、全体のプロットと有機的に絡んでこない。
カーの最初期の数作を読んでみて、カーのもう一つの専売特許であるはずの派手なトリックや不可能興味はこの時期にはほとんど表面に出てこないし、それはそれでいいのだが、やはりそうした要素なしでは、ミステリ作家としては、クイーンをはじめとする同時代作家に一歩も二歩も遅れをとる。カーはそのような作家だ。


で、一個の独立した作品としては駄作の汚名を免れないこの作品だが、カーの履歴や伝記と絡めて読むときには、すこぶる重要な意味を持つ作品だと言うことができる。
前4作のバンコランもので語り手をつとめたジェフ・マールが、故郷のアメリカに帰国した際に出くわす事件という設定で、舞台はカー自身の故郷ペンシルヴァニア州のユニオンタウンをはっきりと類推させ、カーの伝記的事実と重なる部分も多い。
バンコランが登場しない代わりに、この作品ではパット・ロシターという風変わりな青年が(かなり後半からだが)探偵役をつとめる。ややコミカルで破天荒な性格と鋭敏な推理力の対照は、明らかに次の名探偵ギデオン・フェル博士を彷彿とさせるが、何しろ人物造形がまだ中途半端で、習作の感は否めない。きちんと主役で活躍させればそれなりにおもしろいキャラだと思うのだが・・・。
カーが何故、バンコランを捨ててフェル博士に移行していったのか、その過程での模索と悪戦苦闘を示すブリッジ的作品として読めば、これは結構楽しんで読めるかもしれない。


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