ワスチカ読了

忘れないと誓ったぼくがいた

忘れないと誓ったぼくがいた

今回は、ちょっとこだわって、ワン・テイク読み&ワン・テイク感想で、今日の午前中に速攻でレヴューしたかったのだけれど、用事が入ってだめだった、残念!
まあ、いいや。
で、感想。


昨晩、久しぶりに夜鍋してほとんど一気に読んでしまった。
面白くて途中でやめられない、というのとはちょっと違う。平山氏の文章の絶妙なテンポみたいなものに引きずられて、ズルズルと最後まで読まされてしまった、という感じ。


ブログで日記や稚拙なレヴューなんぞを書いていると、自分の文章の下手さ加減にうんざりする。頭の中で考えたことの半分も表現できてないのは勿論だけれど、むしろ僕なんかが難しいと感ずるのは、ブログという媒体に即したテンポと簡潔さをどうやって出すか、ということだったりする。
その点、平山氏のブログ(平山瑞穂の黒いシミ通信)を読んでいるとサスガだなぁといつも思う。取り上げたテーマに合わせて、文体はもちろん、テンポやノリやドライヴ感も微妙に調整しつつ、ごく自然かつ簡潔でコロキアルな文体を表出する(たとえ極度の酩酊状態であったとしても・・・)。この辺の、いわばワン・テイクでリーダブルな文章をものにする「一発芸」の才能っていうのは、もしかして文章家としての至極基本的な資質に関わることなんじゃないだろうか、と思うのだ。

前作の『ラス・マンチャス通信』からひとっ跳びでこの『ワスチカ』を読んだら、文体やノリのあまりの変化にビックリすると思うが、氏のブログに親しんでいた人は、むしろ「あっ、いつもの平山センセイだ」と感じる部分が割と多いんじゃないだろうか。「そりゃそうだ。目を覚ませ、自分。」(37)的なフレーズをふくめて・・・。
というわけで(どういうわけだ?)、僕も変なギャップを感じないまま、ごく自然にこの物語に引きずり込まれてしまったのだった。
この小説、出版までには相当の紆余曲折があったふうに聞いているし、おそらく相当の推敲を重ねたんだろうけれど、それでもこの小説のリーダビリティーは、基本的には平山氏の希有な一発芸の才能に由来する、と確信して止まない僕であった・・・(何言ってんだかわけわかんねーぞ、自分)。


さて、この小説、ちょっとした「ネタばれ」問題を孕んでいて、内容に踏み込むのは憚れるのだけれど・・・承知の上で少しだけ書いてしまう。


この小説を読んで多少でも涙腺が緩まなかった人は少ないだろう。僕も75%ほど緩んで噴出寸前であった。
最愛の人を失うのは悲しい。僕も、例えばニョウボを失ったら(多分、きっと)泣くだろう。愛犬メルを失ったらこれは絶対確実に泣く。
でも、この小説での「喪失」の物語はそれとはちょっと違う。
喪失の物語、最愛の人(あるいは犬でも猫でも物でもいいが)の喪失の物語は、「お涙頂戴」モノの典型としてほとんどセルフカバー的に量産されてきたわけだけれど、この小説の特異さは、その愛するものの喪失の物語が主人公の自我の喪失の物語と否応なしに連関しまうという不条理な設定にある。このシカケは実はかなりの力技なのだが、このシュールな設定をライトな文体に乗せてさりげなく挿入してしまうところが、「幻想作家」!としての平山氏の力量かもしれない。


僕みたいな古い人間は、ついあの20世紀的な(あまりに20世紀的な)、「アイデンティティーの喪失」というテーマに絡めて考えてしまうんだけれど、ここでの状況というのは、その「アイデンティティー」なるものがあるとかないとか、それを失ったとか捜すとか言う以前に、それを最低限保証すべき世界とその境界たる自我(=認識)が首根っこから時空ごと切り裂かれてしまうという、圧倒的に絶望的な喪失状況なわけで、その喪失をあえてゼロから後付け的に検証していく作業のこれまた絶望的な困難さを、あずさの存在証明=ぼくの存在証明たる1冊のノートブックと「絶対消すな!!」と書かれたテープが見事に象徴する。このシカケがなければ、エピローグでのいかにも安易な成長小説風の、いささか楽天的なエンディングの意味がない、ということなのだ。
(こらこら、またまた何言ってんだかわけわかんねーぞ、自分)。


でもって、この「1冊のノートブック」問題を、認識論的に、テクスト論的に、あるいはエクリチュール論的にあれこれ捏ね回したい誘惑にかられるが、蟻地獄にはまる前に筆を置く。
代わりに、僕の好きな言葉をひとつ・・・


腕を伸ばしている間だけのことだ、きみの見るものが君のものであるのは。
ブルトン&エリュアール『処女懐胎』)