(2)Birth of the Cool / Miles Davis (49-50)

Birth of the Cool

Birth of the Cool

今日は買いっぱなしになっていた矢野沙織(as)のCD(PARKER’S MOOD~Live in New York)を聴いてみた。
矢野沙織がジャズとチャーリー・パーカーに嵌まったきっかけが、小学校6年生の時に聴いたジャコ・パストリアスのソロ演奏「ドナ・リー」だったらしいが、パーカー作とクレジットされるこの曲の作者は実はマイルス・デイヴィスだった、という話はこの若いお嬢さんが6年生の頃(といっても、たった7〜8年前か?)にはもう定説だったかも・・・。

昔は、これがパーカーの曲かマイルスの曲かで評論家やジャズファンの間でも一悶着あったが、僕は最初からマイルス派だった・・・。というのも、パーカーの場合はどんな曲でもカンザス特有のアーシーな臭いが拭えないのに対して、この曲は「インディアナ」というディキシー時代からの古い曲のコード進行を使っているにもかかわらず、泥臭さが微塵もなく、どこか無機質でメカニカルでちょっとメリハリに欠ける・・・明らかにパーカーの曲想とは異質なのだ。言い換えると、これはバップ・チューンの中ではとびきり”クール”な曲で、もしかして「ドナ・リー」こそマイルスの”クール”さの出発点だったのでは、といささかこじつけ風に思ったりする。


さて、マイルス・デイヴィスとギル・エヴァンスという盟友の邂逅もまた「ドナ・リー」がきっかけだった。1947年の暮れ、クロード・ソーンヒル楽団のアレンジャーだったギル(当時35歳)が、「ドナ・リー」をビッグ・バンド用にアレンジする許可を取り付けるためにマイルス(当時21歳)に声をかけたのが最初だった。(実際にギルがアレンジしたソーンヒル楽団の「ドナ・リー」は『Real Birth of the Cool』というCDで聴くことができる)
当時のギルの住居だった地下の倉庫のような部屋は、ニューヨークの若くて優秀なミュージシャンが集まる溜まり場になっていて、ジェリー・マリガン、ジョージ・ラッセル、ジョニー・キャリシといったソーンヒル系の奏者・編曲者、ジョン・ルイスマックス・ローチ、そしてマイルスもちょくちょく顔を出すようになる。パーカーも頻繁に立ち寄ったとされるが・・・寝にきたのか(^o^;


というわけで、『クールの誕生』の9重奏団のアイデアは、このギル・エヴァンスの”サロン”でのちょっとハイブロウな仲間達の談義から生まれた。ひとつだけ言っておきたいのは、このアイデアの発端は、ホットで喧騒なビ・バップに対抗してクールで知的なジャズを志向した、などという話ではない、ということ。むしろ、バップの先鋭なハーモニーをもっと大胆にグループ・サウンドに適用しようとした、ということであって、関係者はみんな、この作業を「アンチ・バップ」ではなく、バップの延長線上に考えていた。


48年の後半に、マイルスはパーカーのレギュラー・クインテットから一旦離れるが、その時乗っかったのがギル達のこの9重奏団というアイデアだった。他にあまり仕事もなかったマイルスはこのアイデアに熱中し、あっという間に企画を現実化する。リー・コニッツを含むソーンヒル楽団のメンバーを中心に人選を進め、フランスにいたジョン・ルイスに声をかけ、マックス・ローチをドラムに据える。リハーサルをセッティングし、楽団の売り込みに奔走し、48年9月にはロイヤル・ルーストでの2週間の出演を果たす・・・ひどく有能なプロデューサーぶりを発揮するマイルスがおもしろい。


もちろん、このルーストでのギグは商業的な成功を得られずに終わったが、聴きに来ていた一部のミュージシャンや業界人には圧倒的な影響を及ぼした。スタン・ケントン楽団からキャピトル・レコードに引き抜かれたばかりのピート・ルゴロは、すぐさまマイルスとスタジオ録音の契約を交わす。1949年1月から1950年3月にかけて、3回、12曲のシングル用の音源が録音されたが、54年になってこの内8曲を10インチLPに収録したのが、『クールの誕生』というレコードである。タイトルはその時点で初めてつけられたもの。


と、まあ、『クールの誕生』をめぐる消息をザッと書いてみた。ここでマイルスは、パーカー・バンドから独立して初めて一つの意味ある仕事を成し遂げたといっていいが、このあと間もなく、マイルスの音楽人生は、この楽団の維持・発展などにかまけていられないような異常な局面に突入してしまう。
キーワードは”恋と麻薬”(^o^;


(次のマイルスの項につづく・・・)