現代小説のレッスン

現代小説のレッスン (講談社現代新書)

現代小説のレッスン (講談社現代新書)

僕は、売れてる本は読まない、賞を取った本は読まない、という過度のマイナー志向と文学賞への偏見が災いして、ここ十数年、日本の現代小説(純文学?)をほとんど読まなくなった。だから、村上春樹村上龍(昔はチョットは読んだ)を別とすれば、この評論であげられている現代小説のほとんどを僕は読んでいない。
でも、新しい小説も読んでみたいなぁという気持ちはいつもどこかにあって、最近の小説のレヴュー的なものを期待して、この評論を読んだのだが・・・


この本の論旨と枠組みはしょっぱなのプロローグに大体書いてある。簡単にまとめると・・・。
話し言葉の豊かさに支えられた原初の「物語」に比べ、活字という無味乾燥な媒体でしるされる近代小説の物語は、裸のままではそのまま活字の無味乾燥さを露呈してしまう。それを補填するために、①「内言」、②「思弁的考察」、③「描写」の三要素が物語の中に導入されるが、これらの要素が物語とは無関係に際限なく増殖し暴走した結果、現代小説はどうしようもない「かったるさ」を帯びてしまった。この「かったるさ」を出来るかぎり排除して、小説を「エンタテイメント化」しなければならない。
ただし、「エンタテイメント化」と称して単純に物語回帰を目指せば、それは単にライトで「スカスカ」な代物になってしまうだけだから、課題となるのは、活字に留まりつつ、物語の豊かさを目指す方向性である。
ざっと、こんなところか。


要するに、著者が「エンタテイメント化」に要請するのは、物語の位相と、活字特有の「内言」、「思弁的考察」、「描写」といった位相とのバランス感覚なのだ。
で、バランス感覚などというのは難しい話で、行き着くところは、全宇宙との相対的なバランスの問題になるにきまっている。いや、そんなことではもちろんなくて、個々の題材のバランスを語るとき、試されるのはこの著者のバランス感覚だからだ。しかも、流動する同時代文学を扱う以上、この著者には確固たる足場など与えられているはずもなく、この相対性の海の中で著者が悪戦苦闘する姿が、空前絶後にたのしい(^o^;
途中、村上春樹あたりから、暴力という観念と物語の「領域設定」の問題に脱線していくが、この辺の話のわけのわからなさは、著者自身の立脚点のわけのわからなさで、この批評自体が「領域設定」のバランスを逸した結果だと思うのだが、う〜ん・・・この辺のところは僕にはうまく言う頭がない。


それと、そもそもの話、近代小説の起源を「物語」に置くのは安易すぎるんじゃあないか?
ベンヤミンだか誰だか知らないが、「暖炉のかたわらで、息子や孫たちに」口頭で語られる物語、いかにも幸福そうな物語の原風景がさしたる検証もなしに想定され、そんなナイーブな「物語」への憧憬が、直線的・短絡的に近代小説と対置される。
原初的な物語がどのように語られたかなどどうでもよいが、それを文学という位相とからめて論ずるなら、かつて「詩」というジャンルがあったことを捨象するわけにはいかない。
文字文化以前、口頭で語られた物語が永続的に伝承可能になったのは、韻律というコンテナ=詩が発明されたからで、その結果、文字文化以前の物語が叙事詩という形でしるされ、これが文学の端緒になった。
物語を最初に承継したメディアは詩であって、最初は物語であり歌であり娯楽であった詩が、文字文化・活字文化の進展によって、語られ歌われる必然性を奪われ、「内言」や「思弁的考察」という「かったるさ」のドツボにはまったのは、近代小説が生まれる何百年も前の話だ。あえて極言すれば、そのかったるさの中で疲弊した詩というジャンルは滅び、代わって小説が隆盛する。近代小説の根っこに無垢な形での「物語」があり、それを補填する「副次的・外的・偶然的な産物」として、「内言」や「思弁的考察」が出てくるという図式ではない。むしろ、近代小説が発生した18世紀には、文学という位相の根っこに、すでに「内言」や「思弁的考察」という活字の「かったるさ」ははびこっていて、それをフォローする形で、とうの昔に断絶していた「物語」が回帰的に導入されたのが小説というジャンルではないのか?


学生時代に映画館で『スター・ウォーズ』の第1作を見たとき、僕は、「ことEntertainmentにかけては、もう小説は映画に勝てない。もはや小説は、あくまで言葉の世界で何が出来るか、を追求するしかない」ってなことを日記に書いた。

この著者は、ヴィクトリア朝時代に下層民でさえ日常的にディケンズを読んでいたこと、小説が真の娯楽であったことに「ひっくり返って」いるが、かつて詩が娯楽の王者の地位を小説に奪われたように、小説もまたTVや映画やアニメやゲームといった新たなメディアにEntertainmentの王座を奪われて久しいという現状を、この著者はどう捉えているんだろう?

物語の「藩」的な領域設定によるリアリティーの回復といったような「井の中の蛙」的ネガティヴな戦略でもって、怒涛のヴィジュアル文化の奔流にどうして対峙できるのか?

「現代の小説の方が古典よりレベルが高い」(『群像』10月号の保坂和志との対談での発言)ってなことを平気で言う、この著者の現代小説へのペラい過信でもって、日本の現代小説の悲惨な閉塞状態を救えるとは、僕は到底考えられない。