クリフォード・ブラウン Clofford Brown


■ラッパ吹きの夭折
ジャズの歴代のトランペッターたちは、何故か死神に愛されたらしく、多くの名手たちが夭折の宿命を背負っていた。幾つか例を挙げれば・・・

ビックス・バイダーベック(28歳) 恐らくアルコールが原因で死亡。
ファッツ・ナヴァロ(26歳) 結核&麻薬。
クリフォード・ブラウン(25歳) 自動車事故。
リー・モーガン(33歳) 妻に射殺される!
・ウディ・ショウ(44歳) エイズだったが地下鉄事故で片腕切断が致命傷。


中でも、クリフォード・ブラウンのあまりに早い死(1956)は、「もし生きていたら・・・」の紋切り型がよく似合う。でも、不幸中の幸い、ブラウニーは死ぬ前の約4年間に夥しい録音を残してくれた。しかも、パリでのワン・ホーン・セッションからマックス・ローチとの双頭クインテット、ウィズ・ストリングス、ジャム・セッション、コンサート・ライヴ、そしてヘレン・メリルやサラ・ボーンとの歌盤・・・etc.と、多種多様なセッションを含んでいる。名演でない演奏は1つもないが、あえて2つのアルバムを挙げてみる。


It might as well be spring

コンプリート・パリ・セッション Vol.3

コンプリート・パリ・セッション Vol.3

ブラウニー最後の2年間はほぼエマーシー・レーベルに網羅されているが、それ以前のハイライトは、ライオネル・ハンプトンのバンドに参加してヨーロッパ楽旅した際(1953)、パリで隠密裏に録音された幾つかのセッションだ。ジジ・グライスとクインシー・ジョーンズが中心になって編成したフルバンド演奏も面白いが、なんと言っても、ブラウニーがワン・ホーンでやった6曲(13テイク)が絶品。その中の、『春の如く』はあらゆるバラッド演奏のなかでも白眉とされる快演になった。
迸る歌心に満ちたメロディーラインも絶妙だが、2ビートからちょっとスウィンギーな4ビートへ、そして倍テンポ乗りへと変幻自在に飛翔しまくる芸達者ぶりは、23歳としてはほとんどヒンシュクものといっていい名人芸だ。うますぎる。


Flossie Lou

アット・ベイズン・ストリート+8 (紙ジャケット仕様)

アット・ベイズン・ストリート+8 (紙ジャケット仕様)

54年に西海岸で旗揚げした、マックス・ローチクリフォード・ブラウンの双頭クインテットは、ローチ&ブラウニーと、ハロルド・ランド(ts)、リッチー・パウエル(p)、ジョージ・モロー(b)の不動のメンバーで数々の名演を残すが、スタディ・イン・ブラウンのセッションを最後に、ハロルド・ランドが退団し、サックスはソニー・ロリンズに変わる。そのロリンズが参加した、事実上*1、最初で最後のスタジオ録音がこのアルバムである。
このユニットのフロントとして、ランドとロリンズのどちらが相応しかったのか?という議論は喧々諤々だが、このセッションでの当のブラウニーは、すでに名人の域にあった西海岸の頃に比べても、さらに格段に進歩している。どこまでいくの?という感じだ。音色もタンギングもアドリブのアイデアも歌心も完全無欠である。
僕が持っているエマーシーのコンプリート盤では、Flossie Louのテイクがリハーサル・テイクやフォールス・テイクを含め7テイクも入っているが、ブラウニーのソロは全て違ったアイデアで構成され、正にブリリアントなトーンと次々に湧き出る流麗なフレーズは、どれを取っても甲乙付けがたい。


「ある人を大いに尊敬しながら、大いに愛することはできない」というようなことを、ラ・ロシュフコーが書いていたが、村上春樹にとってもブラウニーは、「留保のない敬意を捧げても、溺愛はできない」プレイヤーだったようだ。「完全無欠」がブラウニーの唯一の欠点だったというわけだ。
が、少なくとも1956年の時点で、ブラウニーを超えるインプロヴァイザーは世界中に一人もいなっかたという紛れもない事実は、このアルバムを聴けばどうしようもなくニョジツだ。

*1:56年1月にロリンズが加わった録音が3曲あるが、テストケースと思われる。ブラウニー=ロリンズをフロントとした正規のクインテットのスタジオ録音は56年2月のセッション。6月にブラウニーが事故死して、これが最後になった。で、全然関係ないが、ブラウニーが死んだのは、僕が生まれた1週間後である・・・