無垢という病

翻訳夜話2 サリンジャー戦記 (文春新書)

翻訳夜話2 サリンジャー戦記 (文春新書)

村上春樹は僕より7歳年上、柴田元幸は2歳年長である。
両氏が言うように、僕らの青春の入り口あたりで、『ライ麦』を読むことは一種の通過儀礼だった。


サリンジャーがこれを書いたのは1950年代の初頭だが、アメリカでも、当初禁書扱いされたこの本がヒットするのは50年代後半から60年代にかけてだし、日本では、52年の橋本福夫の『危険な年齢』という訳書は無視され、64年に野崎孝が訳した『ライ麦畑でつかまえて』が、定番として読まれるようになる。

要するに、アメリカのビートニク文化やカウンター・カルチャーという潮流の中で、ある種の反体制文学として読まれたのだ。頑迷なピューリタニズムを背景とする大人たちの欺瞞に対する反感、あるいは単にスクゥエアな生き方への反抗、といった表面上のテーマがエスカレートして、『Catcher』は反体制運動の聖典となってしまう。で、世代を経て、ジョン・レノンを射殺(80年)したマーク・チャップマンや、レーガン元大統領を狙撃(81年)したジョン・ヒンクリーに受け継がれる。


でも、そりゃないよなぁ、とやっぱり思う。春樹氏が言うように、『キャッチャー』の主題は「イノセンス」であって、無垢とは何か、というもっと内面的な問いなのだ。いや、無垢とは何かという問いに対する煩悶なのだ。その煩悶がホールデンのビョウキなのだ。

僕は随分前から、アメリカ的なビョウキについて思うことがある。それは、例えばノーム・チョムスキーが弾劾するような、支配層や国家権力の欺瞞(そんなものはどこの国にでもある)などではもちろんなくて、この国の人々の、イノセンスに対する手放しの礼賛、フラジャイルに対するそれこそナイーヴ(単細胞)な共感ということなのだ。
ここ数十年のハリウッド映画の「無垢礼賛」ぶりを見れば、それがどれだけアメリカの深部に浸透したかわかる。先に挙げたマーク・チャップマンが狙撃の直後に『ライ麦』を読んでいたとか、ジョン・ヒンクリーがこれまた『ライ麦』の愛読者で、『タクシー・ドライバー』に影響を受けて犯行に及んだという逸話は、反=体制などとは全く関係なく、むしろこのビョウキの末期症状と見るしかない。*1


で、あの9.11のテロを招いたアメリカの国情が、このビョウキと無関係だったとは、僕は最近思えなくなった・・・

*1:なんか話をはしょっちゃったけど、『ライ麦』に関して言えば、よく「イノセンス」を軸として『ハックルベリー・フィン』なんかと比較されるし、そもそもイノセンスアメリカ文学のキモだともよく言われる。が、僕が言いたいのは、一般の受容として、「無垢なるもの」に対するあまりに無防備な信頼というか・・・うまく言えないんだけど。たぶん、イノセンスって必ずどっかに罠があるもんだし・・・。ロビン・ウィリアムスの映画なんか見てるといつもそう思う。