『三島由紀夫の二・二六事件』

三島由紀夫の二・二六事件 (文春新書)

三島由紀夫の二・二六事件 (文春新書)

僕にとって三島由紀夫はひどく読みにくい作家だ。
三島が割腹自殺した1970年、僕は中学2年生だった。日本中(あるいは世界中)を騒然とさせたあの事件は、ハラキリという凄惨なイメージに裏打ちされてかなりリアルに僕の記憶に残っているが、同時にあの事件のどこかチープで時代錯誤的な様相も中学生なりに感じていた。
僕はこの時点で三島の作品は1冊も読んでおらず、高校から大学にかけて『仮面の告白』、『潮騒』、『金閣寺』、『近代能楽集』といった初期の名作や幾つかのエッセイを読んだが、何を読むにつけても、あの三島事件の妙にギクシャクした記憶が邪魔して、三島の天才的な言葉の魔術に素直に身をゆだねることはできなかった。そして、『憂国』から『英霊の声』を経て『豊饒の海』に至る後期の問題作に読み進もうとしたとき、僕は三島を読むのをあきらめた。

つまり、僕の中では天才文学者三島由紀夫と滑稽なほど愚直な右翼煽動家三島由紀夫とのイメージのギャップが大きすぎて、このギャップを僕なりに埋めることなしには、晩年の諸作品を読むことなどできやしない、と見切ってしまったわけだ。
その後、三島の伝記や「盾の会」に関するドキュメンタリー等を読んで、このギャップを埋めるキーが2.26事件にある、とおぼろに了解した。つまり、子供の頃の2.26体験から派生するこの青年将校たちへの共感と憧れが、三島のいささかファナティックな感性の中で異様に美化され醸成され、2.26の青年将校たちのように高貴な目的のために一途に行動し、そして"裏切られて"死ぬ、というシナリオに抵抗できなくなったのだ、と。しかし、事はそんな単純な話ではあるまい。

三島の没後35年に合わせるように文春新書から出されたこの『三島由紀夫二・二六事件』を、だから僕は、僕の中の三島ギャップを埋めるヒントになるのではないか、という淡い期待をもって読んだ。が、残念ながらそうはならなかった。
著者の松本健一氏は、『評伝 北一輝』で司馬遼太郎賞を受賞した北一輝研究の第一人者である。また、『昭和天皇伝説』等で裕仁天皇の実像に切り込んだ昭和天皇研究の先鋒でもある。この本の中で、二・二六事件は、この事件の思想的な支柱となった巨大な思想家・北一輝と、決起将校たちへの同情的な雰囲気もあった周囲の言動を切り捨て、自ら叛乱軍と断定して鎮圧を指示した昭和天皇との対峙、という構図でもって描かれる。その意味では非常に興味深い本だったが、主役はやはり北一輝で、従来の北一輝論や天皇論への批判に多量のページが割かれている。北一輝←→昭和天皇という関係に三島を加えた時に見えてくるであろう異形の三角関係については、わずかな示唆にとどまっている。あるいは、僕がそれを読み取れないだけか?

僕としては、三島事件前後の「盾の会」の動向を淡々と追いかけた保阪正康の『三島由紀夫と楯の会事件 (角川文庫)』の方が正直おもしろかった。あるいは、三島とプライベートな部分で長年密接(男色的な意味合いも含めて・・・)な関係にあった演劇人・堂本正樹による『回想 回転扉の三島由紀夫 (文春新書)』の方がおもしろいかもしれない。