(49) Pithecanthropus Erectus(1956) / Charles Mingus

直立猿人(完全生産限定盤)

直立猿人(完全生産限定盤)

音楽に対してことさらにテーマやアレゴリーを付加するのはロマン派以降の表題音楽の趣向であるが、僕としては、音楽はただ音楽として鳴っていてほしいと思う方なので、音楽を音楽以外のもの、例えば歴史とか文明とか自然とか政治とか戦争とか平和とか心理とか物語とかイメージとか・・・そういったものを表現する”手段”として用いるのを快く思わない。


Evolution(進化)・Superiority-Complex(優越感)・Decline(衰退)・Destruction(滅亡) の4部構成とされる「Pithecanthropus Erectus(直立猿人)」という曲は、ミンガス自身の説明によると、どうやら白人文明の危機や白人対黒人の対立を寓意しているようだ。僕はこれを初めて聴いた時、そんな背景や前提を一切知らず、ただ鳴っている音を聴いて凄まじい衝撃を受けた覚えがある。ところが、この衝撃は、二度三度目となるにしたがって、なんだか陳腐で安っぽいイメージにかき消されてしまった。ミンガスのおどろおどろしく重々しいベース・パターンや、ジャッキー・マクリーンとJ.R.モンテローズがフリーキーなトーンを駆使して繰り出すコラージュ的な効果音は、ほとんど60年代のフリー・フォーム・ジャズを先取りする斬新さで、この時期早くもマンネリ化の方向を辿っていたハード・バップ的状況に対するカウンター・パンチとして評価されるべき代物だと思う。が、こういった斬新な手法がいささか外付け的な主題に奉仕するように用いられると、それはただ手段であり技巧であって、スポンティニアスな風情を失って、全体がただ大仕掛けな装置の類に転じてしまうような気がする。


陳腐といったが、もちろん陳腐さはほとんどモダニズムの核であって、例えばモンクの場合にはその陳腐さが一種の諧謔性となって飄々と軽々しく浮遊するのに対して、ミンガスの陳腐さは重々しく鬱陶しいから陳腐さを楽しむことができない。あるいは、モンクが根っからのモダニストであるのに対して、ミンガスの先鋭性はどこか借り物の臭いがする。マジメ人間が計算ずくで発狂した感じがする。まあ、論理的な狂気に勝る狂気はない、といえばいえるが・・・。


というわけで、これはミンガス・ワークショップによる実験作であって、必聴の名盤であるが、実験作だから日常繰り返して聴くような代物ではない。3回聴いて、あとはしまっておけばよろしい。所持することに意味のある一品である。


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(48) Brilliant Corners (1956) / Thelonious Monk

ブリリアント・コーナーズ

ブリリアント・コーナーズ

セロニアス・モンクといういささか扱いづらい才能を、単なるエキセントリックでアヴァンギャルドな異端児として黙殺しなかった50年代のアメリカは偉いなぁと思う。というか、そもそもビ・バップの揺籃となったミントンズ・プレイハウスのハウス・ピアニストとしてバップ発祥の主要メンバーとなったモンクだけれども、先鋭な実験性を内包していたビ・バップからさえも逸脱するユニークな個性は、少なくとも同時代のポピュラーな理解を得られるなどとは本人も思っていなかったに違いない。「ラウンド・ミッドナイト」等の作曲者としてレコードのクレジットにのみ名を残すか、「ああ、そんな変なミュージシャンがいたなぁ」で終わる可能性は十分あったはずだ。


40年代中葉以降ほとんどレコーディングの機会のなかったモンクを、47年に初めて専属として雇ったブルーノートのアルフレッド・ライオンもさすがだが、50年代後半にモンクがその稀有な才能を開花させたのは、リヴァーサイドのオリン・キープニュースのプロデュースによるところが大きかった。この『ブリリアント・コーナーズ』と『セロニアス・ヒムセルフ』、『モンクス・ミュージック』、『ミステリオーソ』あたりのリヴァーサイド盤が、モンクのピークを画する名盤といっていいのだろう。


初っ端の表題曲からしてすこぶるモンクらしい1曲だ。8×3=24小節の曲かと思って聴いているとどうも小節数が足りない。なんと8+7+7=22小節の曲だ。これを2回繰り返してワンセットだが、2回目はダブルテンポで演る。このイジワルな曲を奏するのは、ホーン奏者(この場合はテナーのソニー・ロリンズとアルトのアーニー・ヘンリー)にとってはもちろん、ベースやドラムスにとっても困難至極であったろう。この曲はちょっと尻切れトンボで終わるが、実のところ、何度やってもうまくいかず、未完成のまま終わった録音テープをキープニュースが継ぎ接ぎしてなんとか1曲にまとめあげたということらしい。
ベースのオスカー・ペティフォードとモンクが演奏をめぐって喧嘩になり、56年10月のセッションは、「Brilliant Corners」、「Ba-Lue Bolivar Ba-Lues-Are」、「Pannonica」の3曲を録音したのみで終わってしまう。残りは同年12月に、モンクのピアノソロの「I Surrender Dear」と、アーニー・ヘンリー(as)とオスカー・ペティフォード(b)の代わりにクラーク・テリー(tp)とポール・チェンバース(b)を加えた「Bemsha Swing」が録音された。一時代前のスタイルが基本のクラーク・テリーだが、この名人の参加がまたこの曲に奇妙な味を加えている。と同時に、モンクの超モダンな感性が、実は根っこのところでトラディショナルなジャズに通じていることを自ずと確認させる演奏だ。


チャーリー・パーカーのスタイルを主流とするビ・バップは、50年代には多くのジャズ・プレイヤーに模倣・承継され、コード進行に基づくアドリブの技法は高度に洗練されていったが、同時にビ・バップの持っていた鮮烈なアヴァンギャルド性みたいなものは角がとれて平板化する。洗練は当然のごとくマンネリズムを招来するわけである。モンクのこの時期の演奏は、ピークを迎えようとしていたハード・バップがすでにマンネリの罠に嵌まりつつあったことを、逆説的に気づかせてくれる。


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(47) Saxophone Colossus (1956)/ Sonny Rollins

初期のソニー・ロリンズは、バド・パウエルやファッツ・ナヴァロと競演したセッション(1949:『The Amazing Bud Powell, Vol. 1』と『The Fabulous Fats Navarro, Vol. 2』に収録)あたりでデクスター・ゴードンばりの豪放なバップ・テナーを披露しているが、その後まもなく麻薬所持で逮捕・入獄があり、1952年も麻薬による入所または入院でまるまる潰している。早くからロリンズの(作曲能力を含めた)才能に惚れこんでいたマイルス・デイヴィスは、この合間に『Dig』(1951)等でロリンズを起用しているし、1954年6月には例の『Bag's Groove』の片面のセッションでロリンズを前面に押し立てているが、必ずしもマイルスの期待に答えるプレイは残せなかった。1954年の秋には、ロリンズはシカゴに雲隠れし(これがロリンズの第1回目の雲隠れとされる)、麻薬厚生施設に入院したり、肉体労働で糊口を凌いだりしていたようだ。
結局のところ、50年代前半のロリンズは、誰もが認める傑出した才能にもかかわらず、麻薬のために精神的な安定が得られず、これといった決定的な演奏を残せないでいた感じがする(この時期の唯一の快演は『ソニー・ロリンズ・ウィズ・ザ・モダン・ジャズ・クァルテット』でのミルト・ジャクソンとの競演だろうか)。


1955年にマイルスが自己のオリジナル・クインテットの結成に取り掛かった時、ロリンズにラブコールを送ったが断られた(結果的にコルトレーンが雇われる)、という話は有名だが、この年の10月、クリフォード・ブラウンマックス・ローチ楽団のシカゴ公演の際、家庭の事情で実家に帰ってしまったハロルド・ランドの代役としてこのバンドに参加したのが、ロリンズのジャズシーン復帰とその後の快進撃のきっかけになった。
再三の引退劇からも想像されるように、ロリンズは結構神経質な男だったようで、まずもって精神的な安定というか、自分のやっている事に対する確信がないとまともに音楽をできないといった様子が時折伺える。その意味では、この時期佳境に入っていたブラウン=ローチ・コンボとの出会いと競演が、自分の目指すジャズへの希望と自己のプレイに対する確信を(そして麻薬との決別の意志を)生んだことは間違いないだろうと思う。


もう一つロリンズの神経質さを感じるのは、楽器の調整に関することだ。51年頃からのロリンズを幾つか聴いてみると、フレージングの優劣以前に、その時々でかなり楽器の鳴り自体の出来不出来を感じざるを得ない。ロリンズはパーカーと同様楽器やマウスピースには無頓着であったように言われるが、どうも50年代前半は、リードやマウスピースやアンブシュアについてかなり悩んでいたんではなかろうか。豪放な音を出すために相当硬いリードを選んでいたことは想像できるが、音の出具合と表現力との限界のところで随分と吹奏法の試行錯誤を重ねていたのではないか、と勝手に思っている。
比較的に、50年代前半のロリンズの音は、特に高音がキンキンとかなり硬質で、時折リードミスもあり、心地よい音とは言いがたい。同じ56年の『At Basin Street』や『Tenor Madness』でも高音が聴きづらいと感じる部分があって、そういった緊張感を孕んだロリンズの音を好む人もいるだろうが、僕はやはり、低音から高音まで豪放かつふくよかでスムーズな音色を確立したこの「サキコロ」が、音色の面でも初期のロリンズの一つのピークをなしていると思う。


麻薬禍の克服と精神的な安定と高揚があり、自分自身の音楽的スタンスへの確信が生まれ、奏法も安定してきたことで、名演の生まれる基本的な条件は満ちていたわけである。アイデアでアドリブを演る男だったロリンズにとって、あとはインスピレーションが天から舞い降りてくるのを待つばかりだった。それが起きたのが1956年の6月22日だった、ということである。関係ないが、それは僕がこの世に生を受けて3日後のことだった・・・(^o^;


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(46) Jazz for the Carriage Trade (1956)/ George Wallington

ジャズ・フォー・ザ・キャリッジ・トレード

ジャズ・フォー・ザ・キャリッジ・トレード

ジョージ・ウォーリントンは、白人ながら生え抜きのバップ・ピアニストとしてガレスピーやパーカーとも共演しているが、ピアノの腕前自体は可もなし不可もなしというところか?
この人がジャズ史に名を残したのは、『クールの誕生』に取り上げられた「God Child」という曲の作曲者として、それから50年代に残した『Live at Cafe Bohemia』(55)とこの『Jazz for the Carriage Trade』(56)の2枚のハード・バップ・アルバムのおかげである。
『Live! At Cafe Bohemia』の方は、若きジャッキー・マクリーン(as)とドナルド・バード(tp)の溌剌プレイが聴けるし、マイルス・コンボ入隊前のポール・チェンバースのベースも聴ける。
こっちの『Jazz for the Carriage Trade』は、ドナルド・バードはそのままだがアルトがマクリーンからフィル・ウッズに変わっている。
ウッズはオリジナルを2曲提供しているし、パーカー風の流暢なプレイを展開するが、翌年ジーン・クイルと組んでからの豪放な演奏と比べると、ややノリが単調でエモーションのうねりのようなものが感じられないような気がする。というよりも、これがこのバンドのノリなのだろうか?
この頃のドナルド・バードのラッパは、イヤホンなどで聴いているとちょっとショボイ感じだが、久しぶりにまともなスピーカーで聴いてみたら、なかなかブリリアントで心地よい響きだ。バードはこの年、「バード・ブロウズ・オン・ビーコン・ヒル」というワンホーンの佳作も吹き込んでいるが、ブラウニー亡き後のトランペット・シーンを先導する才能を垣間見せていると言える。
ウッズにしてもバードにしても、この時期のトップ・レヴェルの腕前だし、このコンボ自体も56年の時点でのスタンダードなハード・バップ・コンボと言えるが、逆に言えば、可もなし不可もなしで、度肝を抜くような感興は感じられない。そこがウォーリントンというリーダーの資質ということか?


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三つの棺 The Three Coffins (1935)

三つの棺 (ハヤカワ・ミステリ文庫 カ 2-3)

三つの棺 (ハヤカワ・ミステリ文庫 カ 2-3)

突然現れた黒装束の男の訪問予告に、酒場で吸血鬼談義をしていたグリモー教授の顔色は蒼ざめた。三日後、雪の中を謎の人物が教授を訪れた。教授の部屋から聞えた銃声にフェル博士らがかけつけると、教授は胸を撃ち抜かれ、客の姿は密室状態の部屋から消えていた! 史上名高い〈密室講義〉を含むカー不朽の名作。(早川ミステリ文庫)

言語の「自己言及」にまつわるパラドックスは極端なところではゲーデルの「不完全性定理」までイってしまうが、文学の上では、メタ・フィクションなる自己言及小説が大流行した時期があって(今もそうか?)、ミステリの分野でもメタ・ミステリというのが随分持てはやされたりして、猫も杓子もメタ・メタとうるさいので僕はちょっと辟易していたのだった。
で、この小説中の有名な「密室の講義」という一章であるが、ここでカーは「われわれは推理小説の中にいる人物であり、・・・」云々とフェル博士に大上段からメタ的な発言をさせていて、これに飛びついてこれをメタ・ミステリのはしりだと評する向きもあるようだが、もちろんそれは失当である。


この「密室の講義」の密室トリック分類自体は、分類基準がやや錯綜していて論理的な分析とは言いがたいが、冒頭で前記のメタ発言により小説の枠組をぶち壊してまで言いたかったことは何なのか、そこは注意しておく必要がある。
カーは、別の作品でも登場人物に言わせているが、大のロシア嫌いである。19世紀のロシア小説的なリアリズムが大嫌いなのである。はっきり言えばドストエフスキーである。それから、この時期はまだ長編デヴューしていないが、チャンドラーのハードボイルド小説も大嫌いで、後に低俗なリアリズムとしてケチョンケチョンに貶している。この時期、ヘミングウェイ的なハードボイルド手法はハメットを介してチャンドラーに伝染してゆく過程にあったと思うが、カーはすでにその予兆をはっきり感じていたのだろう。
カーがフェル博士に「われわれが探偵小説を好む大きな理由は、ありそうにないことを好むからなのだ」と明言させたのは、もちろん、この時期顕著になってきた自己の密室モノをはじめとする不可能犯罪への嗜好を擁護するためだが、その根本には自分の書く小説が近代リアリズムの対極にある物語、すなわちファンタジー(あるいはロマンス)の一種であるという確信がある。
で、あとはグダグダ言わず、それでいいのだ!・・・と開き直って揺るがない。この不動のカーの雄姿が、案外、時代を経ていまだに「探偵小説を好むわれわれ」の拠り所になっていたりするのだ。


この小説のプロットとトリックは見事に計算されて密接に絡み合っているので、どこかを明かせば芋づる式にバレてしまう恐れがあるので、本筋には触れないでおく。トリックの根本は、カー得意の「コロンブスの卵」的な発想の転換であり、どこかで根こそぎひっくり返さないと解は見えてこない。このひっくり返しと犯人をめぐるどんでん返しがまた密接に連関するところが、うまい。
メインのトリックの仕掛けには幾つか無理があるが、それでもやはり、「探偵小説を好むわれわれ」にとっては古今東西のミステリの中でも屈指の傑作である。


カーの長編リストはこちら

(45) The Art Pepper Quartet (1956)/ Art Pepper

The Art Pepper Quartet

The Art Pepper Quartet

53年録音の『Surf Ride』を聴くと、アート・ペッパーのプレイ・スタイルはすでに完成されていて、バップを完全に消化したワン・ランク上の独特なアドリブ・フレーズが迸っているのに驚きを禁じえない。
が、アートはこの直後(53年3月?)に麻薬がらみで最初の逮捕を食らい、翌年保釈されてわずかな録音を残すが、再逮捕、結局56年6月まで服役している。61年には、何度目かの逮捕の末、長い長いリタイヤ状態に入ってしまうので、75年のカムバック後を除けば、アート・ペッパーの名演は、56年8月の『ザ・リターン・オブ・アート・ペッパー』から60年11月の『Intensity』までに集約されている。
昔は幻の名盤として珍重されたアラジン系の『The Return of・・・』や『Modern Art』は、今ではコンプリート化もされていつでも手に入るし、日本では57年マイルスのリズム隊と演った『Art Pepper Meets The Rhythm Section』が恐ろしい人気を誇っているが、僕の昔からの愛聴盤は、56年にTampaというマイナーレーベルに残した『Marty Paich Quartet featuring Art Pepper』とこの『The Art Pepper Quartet』の2枚のアルバムである。レーベルのマイナーさゆえか、再発されては廃盤を繰り返しているようなので、現在簡単に手に入るかどうかわからないが、見かけたら有無を言わず買っておくべし、である。


ちょっと濃いめのラテン素材をクールでソフィスティケイトされた独自のポップ感覚で料理した「Besame Mucho」もカッコイイが、技術とエモーションとリリシズムの完璧な融合とでも言うしかない「I Surrender Dear」や、美しくも緊張感に満ちたバラッドの「Diane」がペッパーらしい。
ジャケット等で散見する「ヤサ男」風のイメージに似合わず、かなり野性的な男だったペッパーだが、下手をすれば暴走・逸脱しがちな強烈なエモーションをきちんと音楽に繋ぎとめているのは、もちろん彼の完璧な演奏テクニックであって、「Art's Opus」や「Pepper Pot」等ミディアム・テンポでの見事なタンギングは、あらゆるサックス奏者のお手本である(前にも同じようなことを書いたっけ?)。


絶頂期のラス・フリーマンのピアノを存分に聴けるのもこのアルバムの魅力のひとつ。ガーランドとの共演もいいが、ペッパーのアルトはやはり気心の知れた西海岸の仲間たちと演ったときに一番輝く。


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(44) Grand Encounter (1956)/ John Lewis

グランド・エンカウンター

グランド・エンカウンター

僕が一番ジャズにはまっていた70年代後半は、秋吉敏子ルー・タバキンのビッグバンドのピークだったから、好むと好まざるとにかかわらず、このバンドの音はよく耳にした。僕は、このバンドでバリトンを吹いていたビル・パーキンスのイメージが強く、ずっとバリサク奏者だと思っていた。しかも、この人があの『Grand Encounter』で悠々たるテナーを吹いていたビル・パーキンスと同一人物だと気づいたのはずっと後になってからだった。


70年代以降のビル・パーキンスのプレイにはそれなりにモダンな(すなわちコルトレーン的な)要素が加味されていたように思うが、56年のこの演奏ではあまりにスタン・ゲッツ・・・というよりは、レスター・ヤングの絶頂期のトーンはこんなだったろう、と思わせるようなクールで奥行きのある絶妙な音が聴こえてくる。


もう最初からビル・パーキンスのテナーを聴くためにあるアルバムになっていて、ジム・ホールのギターを全面的にフューチャーした「Skylark」を除けば、聴き終わって印象に残るのはひたすらパーキンスのテナーの音ばかりなのだ。
で、そういえばピアノは誰だったんだっけ・・・と一瞬頭が飛んでしまうほど、ジョン・ルイスの影が薄い。ほとんど空気のように、透明化してしまっている。これがルイス得意の透明人間技なのである(^o^;
ここでのルイスは、フロントに立てたビル・パーキンスの才能と個性を100%引き出す事に徹していて、おそらく99%引き出す事に成功している。これはスゴイことだ。
よく「才能の120%」を引き出してしまうチーム・リーダーがいるが、それは別のホールのグリーンにオンしてしまったのであって、それを賛美するのは論外である。
ジョン・ルイスがパーキンスの才能を99%引き出したと言ったのは、56年におけるパーキンスの実像をその「限界」を含めて見事に把握していたということであって、それゆえ、超一流選手とは言えないパーキンスが、自己の才能の最高レヴェルにおいて、スタン・ゲッツレスター・ヤングといった巨匠に肉薄してしまうのである。


こう比喩的にしか言えないのがもどかしいが、こういう風にしか言えないジョン・ルイスの才能というものが確かにある。確かに・・・


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